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大阪高等裁判所 平成11年(う)591号 判決 2000年6月22日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年六月に処する。

この裁判が確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

原審及び当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

一  本件控訴の趣意は、検察官中尾巧作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人里見和夫作成の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、以下のとおりである。

本件公訴事実は、「被告人は、平成一〇年七月一四日午前零時一〇分ころ、大阪府吹田市千里山月が丘<番地略>所在の『パブリックパブハロウィン』店内で飲酒中、同店に居合わせた甲野太郎(当時四九年)の言動が不快であるとして、退店しようとしたところ、同人が被告人の後を追って来たことに気付き、そのころ、同店出入口付近において、右甲野に対し、手でその顔面を突き、同人をその場に転倒させてその頭部を付近のレンガ製の床面等に強打させる暴行を加え、よって、同人に硬膜下血腫を伴なう脳挫傷、外傷性クモ膜下出血等の傷害を負わせ、同月三一日午前六時四七分ころ、同市片山町<番地略>市立吹田市民病院において、同人をして右脳挫傷に基づく脳腫脹による脳幹部圧迫により死亡するに至らせたものである。」というものであるが、右公訴事実に対し、原判決は、被告人は、甲野に殴り掛かられるという急迫不正の侵害を受けたため、とっさに甲野の方へ手を出し、甲野の顔面に当てるという暴行を加えたが、被告人の右暴行は、急迫不正の侵害を受けたことに対する防衛の意思でなされたものであり、かつ、防衛行為としての相当性を有するものであるとして、正当防衛の成立を認め、被告人に無罪を言い渡した。しかし、甲野が被告に殴り掛かろうとした事実はなく、仮に甲野が被告人に殴り掛かろうとしたものであったとしても、被告人は、急迫不正の侵害を受けたとはいえず、かつ、被告人の行為は、防衛の意思及び防衛行為としての相当性を欠いているから、正当防衛には当たらないのに、正当防衛が成立するとして被告人に無罪を言い渡した原判決は、正当防衛成立の前提となる事実を誤認し、ひいては、刑法三六条一項の解釈・適用を謝ったものであり、その謝りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

二  控訴趣意に対する判断

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。

1  犯行に至る経緯、犯行及び犯行後の状況について

関係証拠によれば、標記の事実関係は、以下のとおりである。

(一)  被告人は、平成一〇年七月一三日午後九時三〇分ころから、前記「パブリックパブハロウィン」店内のカウンター席中央の椅子に座って飲酒していた。同店内には、先客として甲野太郎(当時四九歳)がいたが、同人は、同日午後一〇時過ぎころ一旦同店を出て、翌一四日午前零時前ころ再び同店に戻り、カウンター席の被告人の右側(同店の出入口から見て奥の方)にある木製椅子二脚を隔てた椅子に座ってビールを飲み始めた。なお、被告人は、本件以前から月に一度くらい同店にやって来る客であったが、甲野とは、それまでに同店で一度顔を合わせたことがある程度の間柄であって、本件事件に至るまで両者の間に格別問題はなかった。

(二)  同店経営者Aは、甲野が再度来店する直前に、氏名不詳者から、今から店に行くので、店を開けておいて欲しい旨の電話があったため、甲野に対し、右の電話をかけたかどうか尋ねたところ、甲野は、「かけた。」「いや、かけていない。」などと答え、明確な返事をしなかった。

そこで、被告人も、甲野に対し電話をかけたか否か尋ねたところ、甲野は、前同様に答えた。被告人は、かように甲野が電話をかけたと言ったかと思えば、またこれを否定するなど、言を左右にしていることや、被告人に向かって顎をしゃくり上げるなどしながら話す甲野の態度を見て、いらいらが募るとともに、小馬鹿にされたと感じて立腹し、「男だったら、はっきりせんかい。」などと大声で言いながら、自己の右隣の椅子(木製の背もたれがついた四本脚の椅子で、全体の重心がやや高い位置にある形態のもの)のシート部分を、右足の裏で、甲野に向けて強く蹴り付けた。右行為により、被告人と甲野との間にあった二脚の椅子が、いわゆる将棋倒しのような状態で、甲野の方に向かって倒れた。なお、この二脚の椅子のうち、甲野寄りの方の椅子が、甲野の身体ないし同人の座っていた椅子に当たったか否かについては、証拠上必ずしも分明ではないが、少なくとも椅子に当たった蓋然性は高い状況であった。

(三)  Aは、右のように被告人が椅子を蹴り付ける前に、かなり酔って被告人にからんでいる甲野の様子を見て、甲野をタクシーに乗せて帰宅させようとして、阪急タクシーに電話をかけていたが、椅子が倒れるのをカウンター越しに見て、椅子を起こすため、すぐにカウンター内から客席側に出て来ながら(あるいは、出て来て被告人の後ろ側を通るとき)、被告人に対し、大声で「(甲野は)酔っているから、相手にせんと帰り。」と言って、同店から出て行くように促した。

それを聞いた被告人は、それ以上同店に止まる理由がなかったことでもあるので、Aの勧めに従って帰宅することとし、甲野に対する不快感を抱いたまま、同店から出て行こうとして、出入口の方に向かって歩いて行った。

なお、被告人は、椅子を蹴った直後、一旦カウンター正面の方に向き直っていたが、それから出入口の方へ歩き始め、本件事件の発生に至るまでの間、甲野から格別反撃や反論を受けたことはなかったし、また、両者が向かい合って睨み合うというような場面もなかった。

(四)  被告人が、出入口のすぐ内側の土間用マットが敷いてあるところまで行った時、背後に迫ってくる人の気配を感じて振り向くと、甲野が、身体をやや前屈みにした体勢で、肩の上辺りまで上げた左手拳を被告人に向けて力無く突き出してきた。そこで被告人は、身体を捻って甲野の手拳をかわしながら、左掌を強く突き出し、甲野の顔面を突いたところ、甲野は尻餅をつきながら後方に転倒し、頭部をレンガ製の床面(あるいは壁面と床面の両方)で強打した。

なお、甲野が転倒した店内側の出入口付近は、狭隘な上に、飾り棚のように柱が突き出ており、また床も約七センチメートル高くなっている部分があって、長身の甲野が後ろ向きに倒れた場合、頭部などをかような床面に打ち付けるのはもとより、壁面等に打ち付けてから床面に打ち付けることも十分にあり得るような状況であった。また、床面、壁面ともに、レンガ製で固かった。

(五)  その後被告人は、倒れた甲野を助け起こすこともなく、再びカウンター席に戻った。他方、甲野は、Aに助け起こされ、同人に見送られながら、翌一四日午前零時二〇分ころ、Aが呼んだタクシーがやって来たので、それに乗り込んで帰宅した。その後甲野は、Aに電話をかけてきて、店での出来事について謝ったが、被告人とは決着を付けるなどと言っていた。

なお、前記のとおり甲野が再び来店してから本件事件の発生に至るまでの時間は、約一〇分間くらいであり、なかんずく、被告人が椅子を蹴り付けてから甲野を突き倒すに至るまでの経過は、時間的、場所的に一連のものであって、その間は短時間であった。

(六)  同日午前三時三〇分ころ、甲野が、姉方に電話をかけ、「頭が痛いから病院へ行きたい、飲み屋でトラブルが起こって、殴られてガンガンされた。」などと言ったので、義兄が甲野を吹田市民病院に連れて行って、同日午前四時四〇分ころ、同病院で診察を受けさせた。しかし、診察に当たった医師は、甲野の意識が清明で、むかつきや吐き気を訴えていなかったことなどから、同人を帰宅させた。しかし、同日昼過ぎころ、甲野は、頭痛が軽減せず、吐き気を催したため、同病院で再度診察を受けたが、その際には、ふらつきが強く、車椅子を要する状態であったため、そのまま同病院に入院し、同月三一日死亡した。

甲野は、右の入院をするまでの間に、「7月月よう13日 ハロウィンでなぐられる 頭いたい 変になったら上の店の客に 上の店のママが見てた」などと記載したメモ紙片及び「7月13日夜 スナック ハローウィンにて 犬(太)った男になぐられ おしたおされた ママが一部始終を見てた」などと記載したメモ紙片をそれぞれ書き残している。

(七)  甲野の死体解剖の結果、甲野の死因は、硬膜下血腫を伴う左前頭葉脳挫傷で、その原因は、後頭部を打撲したことによる対側損傷によるものであることが判明した。また、同じく解剖の結果、甲野の頭部には、頭頂部付近に径約四センチメートルの陥凹部、後頭部に2.5センチメートル×5センチメートル大の皮下出血、「く」の字状や「V」型状の皮下出血を伴う打撲痕、及び3.3センチメートル×1.5センチメートルの皮下出血を伴う打撲痕、右側頭上部に径四センチメートル大の皮下出血などがあることが判明した。

2  急迫不正の侵害について

(一)  甲野の行為について

所論は、甲野は、顎を引いて頭を下げ、膝を前のめりに曲げた体勢で、①左手拳をだらりと力無く肩の高さくらいに上げて、②その手拳を緩慢な動作で前方に突き出しただけであって、甲野が被告人に殴り掛かったということはできない。しかるに、原判決は、甲野の行為について、右のような二段階の行為であったと認定する一方で、①左手拳を肩の高さまで上げ、②その手拳を前に突き出し、③更にその手拳を被告人に向けた振り下ろすという三段階の行為であった旨も認定しており、甲野の行為に関する原判決の事実認定は、整合性のない曖昧なものであって、甲野が被告人に殴り掛かろうとしたと認定したのは、事実を誤認したものであると主張する。

関係証拠によれば、被告人が振り向いた時に、甲野は、やや前屈みの体勢になりながら、左腕を曲げて、肩の上辺りに振り上げた左手拳を、被告人に向けて力無く突き出してきたものと認められるところ、外にその行為が被告人を呼び止めるためになされたとか、単なる威嚇のためになされたことなどを認めるべき証拠がない以上、その行為態様などに照らし、甲野の右行為を、被告人に殴り掛かろうとしたものとした原判決の事実認定に謝りはないというべきである。なお、右のような甲野の体勢及び甲野(身長約一七七センチメートル)と被告人(身長約一六五センチメートル)の身長差に照らすと、甲野が被告人に殴り掛かろうとする場合に、手拳を振り下ろし気味に突き出すことは不自然ではないから、所論の指摘する甲野の動作に関する原判決中の説示の相違は、単に表現の相違に止まるものと考えられ、原判決が、甲野の動作について、整合性のない認定をしているとはいえない。

(二)  喧嘩闘争状態にあったとの主張について

所論は、(1)被告人が、甲野に向けて椅子を強く蹴り付けたことにより、その椅子が横倒しになり、更にその右隣(甲野の左隣)の椅子が、甲野自身か、少なくとも甲野の座っている椅子に当たった可能性が極めて高く、(2)被告人が甲野に向けて椅子を蹴り付けた行為は、甲野に喧嘩を売ったとしか言いようのない挑発行為であって、被告人には、右行為によって、甲野の出方次第によっては同人と喧嘩闘争になっても構わないという未必的意図があったのであり、かつ、被告人は、甲野が立腹して被告人に対し何らかの反撃に出るであろうことを予期していたというべきであるから、被告人が椅子を蹴り付けたことによって、被告人と甲野との間に喧嘩闘争状態が出現したというべきであり、更に、(3)被告人が、甲野に向けて椅子を蹴り付けてから、被告人が一旦カウンターの方に向き直った後、間もなく席を立って出入口方向に歩いて行き、後方から来た甲野に気付いて、同人と対峙するまでは、時間的、場所的に接着した一連の出来事というべきであるから、被告人は、甲野が、被告人を追い掛けて来て反撃することを十分予期していたのであって、前記の喧嘩闘争状態が継続していたというべきである。しかるに、(1)について、被告人に蹴り倒された椅子が甲野に当たったかどうか、及び椅子がどのように倒れたか明らかでない」とし、(2)について、被告人が甲野に向けて椅子を蹴り付けた行為を挑発行為と認めず、したがって、同行為による喧嘩闘争状態の出現を認めず、(3)について、「甲野が被告人を追い掛けて店の出入口付近まで来たことは、被告人にとって予測していない意外な事態であったという可能性を否定できない」「被告人が、甲野の前記攻撃を予測し、あるいは甲野の攻撃を殊更利用して積極的に攻撃を加えようとする意思を持った上で、甲野に対し、『こんな奴に殴られてたまるか』という気持ちを持って本件行為に及んだと認定するには合理的な疑問がある」として、喧嘩闘争状態にあったことを認めず、被告人が甲野の反撃を予期していたことを否定した原判決の事実認定には誤りがある、というのである。

ところで、(1)については、Aの当審証言及び実況見分調書(原審検察官請求証拠番号甲〔以下単に「甲」又は「乙」と略記する〕23写真六号)などの関係証拠によって認められる前記1(一)、(二)の状況や、椅子を蹴り付けた後、その椅子が、斜めになって向こう側(甲野の方)に倒れていくのを見ていた旨の被告人の原審公判供述などに照らすと、前記1(二)のとおり、甲野の左隣の椅子が、甲野の身体についてはともかく、少なくとも甲野の座っていた椅子に当たった蓋然性は高いと認められる。そして、前記1(二)のとおり、被告人が、甲野から小馬鹿にされたと感じ、椅子を蹴り付けた際、「男だったら、はっきりせんかい。」などと大声で言っていたことや、実況見分の際の被告人の指示説明などに照らすと、被告人が椅子を強く蹴り付けたことが認められる。

(2)については、被告人が前記のように侮辱的な言辞とともに椅子を蹴り付けた行為が、通常、他人を立腹させるのに十分な行為であることに照らせば、被告人が、いくら甲野はその痩せた体つきや、大人しそうな人柄から、とても反撃してくるような人物には見えなかった旨供述しているとはいえ、甲野に向けて椅子を蹴り付けた時点においては、甲野が右行為に対し何らかの反撃をしてくるかも知れないと認識したとしても、何ら不自然ではなかったものと推認される。(なお、被告人は、捜査段階から当審公判に至るまで、ほぼ一貫して、「椅子が甲野や甲野の座っている椅子に当たったかどうかは見ていない」「甲野が反撃してくることはないと思っていた」旨供述しているが、前者の供述からは、被告人は、蹴り付けた椅子が甲野ないし甲野の座っている椅子に当たらないようにと特に配慮することなく、当たってもかまわないと思いながら蹴り付けたことが推認されるし、後者の供述は、椅子を蹴り付けた時点に関する限り、措信し難いというべきである。)

しかし、右の椅子を蹴り付けたことを含むその前後の状況としては、前記1(一)のとおり、被告人と甲野との間には、本件事件に至るまで遺恨、因縁などはなかったこと、被告人は、甲野に対し、その身体を殴打するなど直接の攻撃を仕掛けることはせず、自己の隣にあった椅子を蹴り付けてうっ憤ないし立腹を晴らすという間接的な、かつ、一回限りの攻撃を加えるに止まっていること、前記1(三)のとおり、その後、被告人はすぐにカウンターの方に向き直ったが、その際には、甲野が何ら反撃、反論をしてこなかったし、また、甲野との間で睨み合うといったいわば一触即発の緊迫した状況には至らなかったことなどが認められるから、これらの状況に照らすと、前記1(二)のとおり、被告人が甲野に向けて椅子を蹴り付けた行為が、所論の主張するような積極的な挑発行為であり、これにより両名の間に喧嘩闘争状態が出現したとまでは認められない。

(3)については、前記(2)について認定、説示したとおり、椅子を蹴り付けたことによって被告人と甲野との間に喧嘩闘争状態が出現したとまでは認められないところ、前記1(三)のとおり、その後、被告人は、甲野を相手にしないで帰宅するように勧めるAの言葉を受け入れて、店から出て行こうと決意し、出入口の方に向かって歩いて行ったことが認められるから、これに、前記(2)について認定した諸事実、更には、前記のとおり、被告人が、甲野はその痩せた体つきや、大人しそうな人柄から、とても反撃してくるような人物には見えなかった旨供述していることを併せて考察すると、被告人が退店を決意して出入口の方に歩いて行った時点以降については、甲野が反撃してくることは予期していなかった旨の被告人の弁解を無下に排斥することはできないというべきである。そして、この判断は、右のように被告人が退店しようとしていたことなどの事実関係に照らすと、被告人が椅子を蹴り付けてから甲野を突き倒すに至るまでの経過が、前記1(五)のとおり、時間的、場所的に一連のものであったことによっても変わらないということができる。そうすると、右時点以降においては、被告人が甲野の反撃を予期していたとは認められず、かつ、その反撃を予期することが可能であったとも断定できない。

以上の次第で、原判決には、被告人が甲野に向けて椅子を蹴り付けたときの椅子の倒れ方や、その時点における甲野による反撃に関する被告人の認識などについて若干の事実誤認があるものの、原判決が、被告人が、ハロウィンの出入口付近で甲野の顔面を左掌で突く暴行を加えた時点において、被告人と甲野とが喧嘩闘争状態にあったとは認定せず、被告人は甲野が追い掛けてきて反撃することは予期していなかったと認定した、その結論に誤りはない。

(三)  自招侵害であるから、侵害の急迫性の要件を充たさないとの主張について

所論は、甲野は、被告人から椅子を蹴り付けられるという暴行を加えられ、そのような違法な先制攻撃を受けたことに誘発されて被告人に殴り掛かったものであり、しかも、甲野による暴行の態様及び程度は、椅子を蹴り付けるという暴行を加えられた者の反撃行為として通常予期し得る態様及び程度に止まるものであったから、これをもって被告人に対する急迫の侵害と認めることはできないと主張する。

しかし、なるほど、甲野の行為は、被告人から、前記のとおり侮辱的言辞と共に椅子を蹴り付けられたことに誘発されたものであることが明らかであるとはいえ、前記(二)で認定、説示したとおり、ハロウィンの店内出入口付近で甲野の顔面を左拳で突いた時点においては、被告人が、甲野から反撃を受けることを予期していたこと、あるいは予期することができたことを確認することができないのであるから、所論はその前提を欠いているというほかはない。

(一)ないし(三)の各所論は、いずれも採用することができない。

3  防衛の意思について

所論は、被告人は、甲野の言動に立腹して椅子を蹴り付けた後も立腹が収まらず、甲野が酩酊のため、緩慢な動作で腕を突き出してくるのを見て、被告人を殴打しようとしてきたものと感じ、「こんな奴に殴られてたまるか」との思いに駆られて更に立腹し、突き出された甲野の手拳を易々とかわした上、甲野の顔面を掌で強く突いたものであって、被告人は、甲野の攻撃を防ぐ意図からではなく、立腹の余り積極的に甲野に攻撃を加える意図で本件犯行に及んだものであるから、甲野の攻撃に対応して、とっさに出した手が当たったに過ぎないものとして、被告人に防衛の意思があったとして原判決の事実認定には誤りがある、というのである。

なるほど、被告人は、捜査段階において、「こんな奴に殴られてたまるか」と思い、甲野の顔面の狙った掌で突いた旨供述しているところ、右供述は、甲野の顔面を突いてやろうと思って行動したのかもしれない旨、及び甲野の態度に不快感と憎悪を感じ、立腹して椅子を蹴った旨の被告人の原審及び当審公判供述や、前記1(五)のとおり、甲野が転倒した後、被告人が、助け起こそうともしなかったことなど、被告人が甲野の顔面を突く前後の客観的な状況ともよく符号していることなどに照らし、十分信用することができる。すなわち、右の供述は、被告人が、警察官及び検察官に対し、自らそのとおりの文言を用いて供述し始めたものかどうかはしばらく措くとしても、被告人が甲野の顔面を突いた際の、甲野の痩せた体つきや、大人しそうな人柄からして、よもや反撃してくるとは思っていなかった甲野から反撃を受けたことに対する立腹とともに、その反撃をかわし、更に再反撃を加えるに至ったという心情をよく表現している言葉として十分に了解することができるのである。したがって、被告人は、甲野が殴り掛かってくるのを見て、右のような心情から、甲野の顔面を狙って掌で突いたと認められるから、「とっさに突き出した手が甲野の顔面に当たった」「被告人が、『こんな奴に殴られてたまるか』という気持ちを持って本件行為に及んだと認定するには合理的な疑問がある」「甲野の攻撃に対応してとっさに手を出したところ、それが甲野の顔面に当たった」として、被告人が、専ら防衛的な意思のみに基づいて、たまたま手を出したところ、それが甲野の顔面に当たったと認定した原判決の事実認定は、首肯することができない。

しかし、被告人が、甲野に向かって左掌を突き出したのは、甲野の左手拳を体を捻ってかわし、甲野の手拳が被告人の耳許をかすめたのとほぼ同時であったと認められること、また、当時の心情についての「こんな奴に殴られてたまるか」という被告人の供述自体、前記のとおり、甲野からの攻撃を回避するとともに、同人に反撃するという心情を表わしているとも解されることにかんがみると、甲野の顔面を突いた際、被告人は、攻撃の意思だけでなく、甲野からの攻撃に対応し、それを避けるという防衛の意思をも併せ持っていたと認められる。

ところで、行為者に、相手方の攻撃に対応してその侵害を排除するという意思がある限り、たとえ行為者が攻撃的な意思を有していても、防衛の意思はこれと併存しうるものと解せられる。換言すれば、行為者が、相手方の侵害とは無関係に、侵害を加えられた機会を利用して専ら攻撃をするというのではなく、権利を防衛するためという意思が、反撃行為をした理由の一つになっていると認められる場合には、防衛の意思があったというべきである。したがって、被告人に防衛の意思があったと認めた原判決の認定、判断は、結論において正当である。

所論は採用できない。

4  防衛行為の相当性について

所論は、(1)長身痩躯で病弱な甲野に比べ、被告人は、屈強な体格をした柔道五段位の猛者であって、体格及び攻撃防衛能力において、甲野を圧倒的に凌駕しているが、そのことは被告人も十分承知しており、(2)甲野の攻撃は、緩慢で危険性の低いものであり、突き出してきた腕を振り払うなどして容易に回避する手段を採り得たにもかかわらず、(3)レンガ製の床面や壁面に囲まれた店舗内出入口付近において、顔面を掌で強く突けば、同人が転倒して頭部等を壁面や床面に打ち当てる危険性が高いことを認識していながら、(4)あえて左掌で同人の顔面を強く突いた行為は、防衛行為としての相当性を著しく逸脱したものである。しかるに、甲野が手拳で殴り掛かってきたのに対し、被告人がとっさに手を出したところ、その手が甲野の顔面に当たったという事実を認定した上、被告人の行為に防衛行為としての相当性を認めた原判決は、事実を誤認し、ひいては法令の解釈適用を誤ったものである、と主張する。

(1)については、所論のとおり、甲野は、身長こそ約一七七センチメートルあったものの、胃を殆ど摘出していたため、体重が約48.4キログラムしかなかったに対し、被告人は、身長約一六五センチメートル、体重約八七キログラムのがっしりした体格で、柔道五段位を有していて、体格及び攻撃防衛能力の点において、甲野をはるかに凌いでおり、しかも、被告人はそのことを十分認識していたと認められる。加えて被告人は、前記のような甲野の話し方などからして、また、「(甲野は)酔っているから、相手にせんと帰り。」というAの言葉を聞き入れて退店しようとしたのであるから、そのことからしても、事件当時、甲野がかなり酩酊していたことを十分認識していたと認められる。

(2)については、前記2(一)のとおり、甲野は、やや前屈みの体勢で、左腕を曲げて拳を肩の上辺りに上げ、その拳を力無く前方に突き出してきたのであるから、その攻撃は弱いものであったと認められ、実際、被告人は、身体を捻って、甲野が突き出してきた手拳を、耳許をかすめる程度の距離で容易に回避したと認められる。

(3)についても、実況見分調書(甲3、23)の記載等に照らすと、現場であるハロウィン店内の出入口付近は、前記1(四)のとおり、レンガ製の壁面や床面に囲まれた狭隘な場所であって、長身の甲野が後ろ向きに転倒すれば、壁面や床面に頭部等を打ち付ける危険性が高かったことが認められ、更には、前記1(一)のとおり、被告人が本件以前から同店の客であったことをも併せると、被告人が、右のような現場の状況を認識していたことも優に認められる。

(4)については、前記3について認定、説示したとおり、左掌で甲野の顔面を狙って突いた際、被告人には、甲野の攻撃を避けるというだけではなく、立腹の余り甲野に対し反撃を加えるという意思もあったと認められるところ、進んで、右反撃の強さについてみるに、前記1(四)のとおり、被告人に突かれた甲野は、その場で尻餅をついただけでなく、更に後方に転倒して頭部をレンガ製の床面などに強く打ち付けたこと、そのため、甲野の頭部には、前記1(六)のとおり、後頭部の広範囲にわたって数箇所に及ぶ陥凹部及び打撲、擦過傷が生じており、しかもその打撲は、対側損傷として左前頭葉脳挫傷を引き起こすものであったこと、甲野は、本件被害に遭った後、前記のとおり、被告人に「殴られ、押し倒された」旨などのメモを書き残しており、更に、入院中に見舞いに来た姉に、「太った男(被告人)に殴られてがんがんやられた」旨繰り返し述べるなど、あえて虚偽の事実を述べるとは思えない時期と状況の下で、甲野としては、被告人から強く殴打されたり、押し倒されたと思っていたことを窺わせる言動をしていたことなどが認められる。そこで、右のような甲野の転倒及び受傷の状況、甲野の死亡する前の言動並びに甲野を突いた際における前記3で認定した被告人の心情等に照らすと、被告人は、甲野をかなり強く突き倒したことが認められる。被告人の捜査段階並びに原審及び当審公判における供述中、右認定に反する部分は、右に摘示した状況等に照らして信用することができない。

そうすると、前記のようなレンガ製の壁面や床面に囲まれた狭隘な場所で、至近距離から、酩酊している相手方の顔面を狙って左掌を強く突き出す行為は、それにより相手方を転倒させ、その頭部等を囲い顔面や床面に打ち付けさせて負傷させる危険性の高い行為であることが明らかであり、しかも、被告人は、前記のとおり、甲野に比べ、体格及び攻撃防衛能力において格段に勝っていた上、被告人が甲野から受けた攻撃は弱いものであったから、これを容易に回避することができたのに、手加減を加えることもなく、同人をかなり強く突き倒したものである。したがって、被告人の右行為は、防衛行為としての相当性を欠いていることが明らかというべきである。なお、本件においては、前記説示のとおり、被告人がすでに退店しようとしていた際に起こった事件であるという特段の経緯、事情があることなどから、急迫性などの正当防衛状況がなかったとまでは断定できないとしても、被告人を殴打しようとした甲野の行為が、これより先に被告人が甲野に向けて椅子を蹴り付けた行為により誘発されたものであることは動かし難い事実であるから、被告人の反撃について、防衛行為としての相当性の有無を判断するに当たっては、本件事案を全体として見た上での保護法益の均衡という視点から、右のような誘発行為の存しない場合に比し、相当性が認められる範囲がより限定されるものと考えられるので、そのことをも勘案すると、右の結論は、より一層肯定されるというべきである。

5  結論

以上の次第で、被告人の行為は、防衛行為としての相当性の程度を超えた過剰防衛であるから、それをも否定した原判決には、その前提となる事実について判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があり、ひいては法令の解釈適用の誤りがある。論旨は、その限度で理由がある。

三  自判

よって、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書に則り、被告事件について更に次のとおり判決する。

(犯行に至る経緯)

被告人は、平成一〇年七月一三日午後九時三〇分ころから、大阪府吹田市千里山月が丘<番地略>所在の「パブリックパブハロウィン」店内のカウンター席中央の椅子に座って飲酒していた。同店内では、先客の甲野太郎(当時四九歳)がいたが、同人は、同日午後一〇時過ぎころ一旦同店を出て行き、翌一四日午前零時前ころに再び同店に戻って来て、被告人の右側にある木製椅子二脚を隔てたカウンター席に座ってビールを飲み始めた。同店の経営者Aは、甲野が再度来店する直前に、氏名不詳者から、今から店に行くので、店を開けておいて欲しい旨の電話を受けたことから、右電話をかけたのが甲野であるかどうか尋ねたところ、甲野が「かけた。」「いや、かけていない。」などと答えて、はっきりした返事をしなかった。そこで、被告人も、甲野に対し電話をかけたか否か尋ねたところ、甲野は、前同様に答えた。被告人は、かように甲野が電話をかけたと言ったかと思えば、またこれを否定するなど、言を左右にしていることや、顎をしゃくり上げるなどしながら話す甲野の態度を見て、小馬鹿にされたと感じるとともに、いらいらが募って立腹し、「男だったら、はっきりせんかい。」などと大声で言いながら、自己の右隣の椅子を、甲野に向けて強く蹴り付け、甲野との間の椅子二脚を倒したが、「(甲野は)酔っているから、相手にせんと帰り。」とのAの勧めに従って帰宅することとし、甲野に対する不快感を抱いたまま、同店から出て行こうとして、出入口の方に向かって歩いて行った。

(罪となるべき事実)

被告人は、翌一四日午前零時一〇分ころ、前記「パブリックパブハロウィン」の店内側出入口付近において、背後から迫って来る人の気配を感じて振り向いたところ、被告人の後を追って来た甲野が、身体をやや前屈みにした体勢で、左手拳を同人の肩の上辺りまで上げて被告人に向けて力無く突き出し、被告人を殴打しようとしているのを認め、こんな奴に殴られてたまるかという思いから、その攻撃を避けるとともに、反撃することを決意するや、身体を右に捻って甲野の手拳をかわすとともに、甲野の顔面に向けて、防衛の程度を超えて、左掌を強く突き出して同人の顔面に打ち当てる暴行を加え、甲野に尻餅をつかせた上、同人を仰向けに転倒させて、その頭部を同店内出入口付近のレンガ製床面などに強く打ち付けさせ、よって、同人に硬膜下血腫を伴う脳挫傷、外傷性クモ膜下出血等の傷害を負わせ、同月三一日午前六時四七分ころ、同市片山町<番地略>所在の市立吹田市民病院において、同人を脳挫傷に基づく脳腫脹による脳幹部圧迫により死亡するに至らせたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇五条に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年六月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判が確定した日から三年間右刑の執行を猶予することとし、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文を適用して、これを全部被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は、判示のような経緯により、被害者から手拳で殴打されそうになった被告人が、自己は柔道五段位にあるなど、攻撃防衛能力において被害者をはるかに凌いでおり、しかも被害者がかなり酒に酔っていることを知っていたのであるから、自重すべきであったのに、こんな奴に殴られてたまるかという思いから、手加減をすることもなく、防衛行為としての相当な程度を逸脱して、判示のとおり被害者に反撃を加え、その結果、被害者を犯行から一七日後に死亡させたという過剰防衛による傷害致死の事実である。

被告人は、被害者の攻撃に反撃したものであるとはいえ、被害者が被告人を殴打しようとしたのは、被害者の些細な言動、態度に立腹して椅子を蹴り付けたという被告人の行為に誘発されたためであることにかんがみると、本件犯罪の発生については、被害者にも落ち度があったことは否定できないが、むしろ被告人により大きな責任があるといわざるを得ない。被害者を死に至らしめたその結果は重大であり、被害者の遺族の被害感情が厳しいのも無理からぬことである。しかし、本件は、偶発的な犯行であり、被告人は、被害者の顔面を掌で一回突く以上のことはしていないこと、被告人が、被害者の死亡という重大な結果を招いたことについては、深く悔いていること、被告人には暴力行為等による古い罰金前科があるものの、これまで、一家の支柱として真面目に生活し、犯罪とは無縁の生活を送ってきたこと、本件事件により、職場でも処遇上の不利益を受けていること、更には、原判決後、被告人が、被害者の遺族に対し、被害弁償金の一部として三〇〇万円を支払っていることなど、被告人のために有利に斟酌すべき事情もあるので、以上の諸事情を彼比勘案した上、被告人を主文掲記の刑に処し、なお、実刑をもって望むのは酷に失するので、主文掲記のとおりその刑の執行を猶予することとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官・福島裕、裁判官・樋口裕晃、裁判官・井上豊)

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